悩み:6月4日、ホーチミンシティの日本人街として知られるエリアで、日本人がベトナム人に刺殺された事件に、私達在住日本人は大きな衝撃を受けています。これまで「ベトナムはスリや引ったくりなど軽犯罪は多いけれど、殺人事件のような重犯罪はない」と聞いていましたが、怖くなってきました。今回の事件をどう受け止めればいいのでしょうか。(ベトナムが苦手な駐在員/45歳)
ベトナムは危険な国か
まずは亡くなられた方の御冥福をお祈りしたいと思います。犯人はすぐに逮捕されたものの、詳細に関してはまだまだ分からないことも多いので、今後の捜査の進行状況を見ることにしましょう。
──そうですね。いちばん気になるのは「ベトナムは一体、安全な国なのか、それとも危険な国なのか」です。
こういう質問は時々頂くんですよ。そのときに私が引用する資料に「世界平和度指数(Global Peace Index)」というランキングがあります。オーストラリアに本部をおく国際的なシンクタンク、経済平和研究所(IEP)が毎年発表を行っているものです。2024年度版のランキングを見ると、、世界163の国と地域のうちベトナムは第41位。上位14か国までが、平和度が「非常に高い」に分類され、ベトナムはそれに次ぐ「高い」というグループに入っています。ちなみに日本は17位です。
──ベトナムは意外と上位なのですね。
東南アジアではシンガポール5位、マレーシア10位に次いで3番目。以下、インドネシア48位、ラオス49位、カンボジア70位、タイ75位と続きます。その他、日本人にも馴染みのある国でベトナムより下位なのはフランスが86位、アメリカ132位など。このランキングが絶対的な指数ではないにしても、総体的に見るとベトナムは安全な国と言えるのではないでしょうか。
「ベトナムは安全」という神話
──そう言われても、不安を払拭できない在住者が多いと思いますよ。私の周囲でも「ベトナム人と揉めたら、最悪、殺されるかもしれないのだから、用心をする必要がある」とか「路上で見知らぬベトナム人からお金をせびられたら、今後は素直に払う。金より命」とか、中には「自衛のためにカバンの中に武器を入れておくつもりだ」と言う人もいます。
そんなふうに心配してしまうのには、日本人の間に存在する「2つの神話」が影響していると私は推測しています。
──「2つの神話」とは何ですか?
1つは「ベトナムは安全だ」という「神話」です。世界でもっとも安全な国の一つである日本ですら、2022年には殺人事件が853件も発生しました。また日本でも今回のように、見知らぬ者同士が路上で喧嘩になり、相手に怪我をさせてしまうという事件は発生していますよね。ベトナムでもそれなりの備えは必要です。
──ベトナムは世界水準では安全な国であっても、日本よりは危険なわけですからね。旅行者の方で、たまたま知り合った日本語ができるベトナム人から誘われ、「現地の人と交流できて嬉しい」と、家に遊びに行ってしまう人がいるんですよ。日本でもしないようなことを、ベトナムでするなんて、あまりにも無謀過ぎます。
「日本人は安全だ」という神話
もう1つは「日本人は安全だ」という神話です。何年もベトナムに住んでいる人でも「ベトナム人は親日だから安全」とか「日本人は尊敬されているから安全」と意識的に、または無意識のうちに考えていた人は少なくないでしょう。でも親日だからと言って日本人が被害に遭わないわけではありません。
──ある在住者は、今回の事件をこんな風に解説していました。「ベトナムが経済的に豊かになり、日本の地位が相対的に低下した。ベトナム人は基本的に拝金主義なので、日本の経済的地位が下るのと比例して、日本人に対する尊敬の念も下がってきた。以前ならベトナム人が日本人に暴力をふるうということはあり得なかったが、今は相手が日本人であっても平気で暴力をふるう。今回の事件には、そういう背景があるのだ」と。
私はそういうベトナム人を下に見る態度こそが危ないと思いますよ。日本がベトナムに対して圧倒的に経済的優位にいた20年前でも、ベトナム人に対して横柄な態度の日本人は嫌われていましたからね。ただ近年、日本人に対する評価が下がっているのは事実だと思います。
──これだけたくさんのベトナム人が日本を旅行したり働きに行っているのに、ですか。
逆に訪日・在日ベトナム人が増えるのと反比例しているように私は感じています。2017年頃だったでしょうか、日本から戻ってきた技能実習生達から「日本はあまりいい国じゃなかった」「日本人は不親切だった」という声をよく聞くようになったんです。日本に働きに行く前後で日本に対する好感度の変化を調べたところ、事後は「日本が好き」というベトナム人の割合が半分くらいに減ったという調査結果を読んだのも、この頃です。
──日本経験者が増えて日本の評判が下がると言うのは皮肉だし残念なことですね。
もちろん日本に留学して日本の大ファンになった人や、日本に働きに行き両親に家をプレゼントしたような人もいるんですけどね。
「武器」と「麻薬」に要注意
治安を考える上で、ベトナムと日本ではいくつか異なる点があります。ここでは2つの点に関して注意を喚起したいと思います。一つは「武器になるものを持ち歩いているベトナム人が意外と多い」ということ。
──それは分かる気がします。以前、タクシーに乗っていたときに、バイクがかなり激しくぶつかってきて、そのまま逃げようとしたんですよ。すると運転手は、座席の下から取り出した鉄製のパイプのようなものを手に、バイクの運転手を追いかけ始めたんですね。
私も普通の大学生が、カバンの中に護身用のバタフライナイフを持っているのを見たことがあります。
──日本よりは用心する必要がありますね。
それからもう1つは「麻薬」です。ベトナムでも麻薬は厳しく取り締まられていますが、それでも日本に比べるとはるかに緩いというのが現状でしょう。一昔前だと、ニューワールドホテルの前の公園には、麻薬を打つのに使った注射器が捨てられているのを、よく見かけました。今でも、夜にブイヴィエン通りに行くと、ドラッグを売っている商人がいますよ。そして麻薬中毒者による刑法犯罪が発生しています。
──街中で麻薬を警告する看板をよく見かけますが、そういう事情があるのですね。
ベトナム人を見下す傾向
今回の事件とは直接関係はないのですが、日本人は無条件にベトナム人のことを下に見る傾向があると思うんです。私自身も偉そうな事は言えません。例えば、仕事の現場で日本のやり方とベトナムのやり方が食い違う場合、日本方式が正しいと考えてしまいがちですから。
──かなり前のことになりますが、日本人駐在員と現地採用者が集まる飲み会に参加したとき「ベト化」という言葉を耳にしました。「ウチの社員のAがすっかりベト化しちゃって、ランチは日本食屋じゃなくて路上の皿飯屋に行って、それを『うまい、うまい』とありがたがって食べているんだよなあ」とか「あのカフェ、内装のセンスがベトベトでダサいのよねえ」みたいに使われていて、ネガティブな意味合いです。私は駐在員で、好きでベトナムに来たわけではなく、住んでいる今もベトナムのことが決して好きではありませんが、あそこまでベトナムのことを悪しざまに言うのは、聞いていて気分が悪くなりました。店内に日本語が分かるベトナム人がいたら、きっと不快だったでしょうね。
日本人の「ベトナム人を無条件に下に見る」傾向について、もちろん、ベトナム人は気がついています。今回の事件が起きる2か月ほど前のことですが、ベトナム人の友人と食事をしたときにも「日本人はベトナム人を見下しているよね」と言う話が出ました。
──ドキッとしますね。
彼女は「それは仕方がないことだと思う。日本のような素晴らしい国に比べると、ベトナムはまだまだ遅れている国だから」と、冷静に受け止めていましたね。彼女によると「日本人と付き合いのあるベトナム人の中で『自分たちは下に見られている』と感じている人は少なくない」そうです。でも「それをあえて日本人に言うことはない。だって実際に下なんだから」とのこと。
──「大人」の受け取り方ですねえ。
相互理解を深める契機に
この話をしてくれた友人は経済的に成功していて、平均的な日本人より豊かな生活をしているので、逆に、冷静に状況を見ることができるのかもしれません。私がいちばんハッとしたのは、続いて出てきたセリフです。
「ただ日本人がベトナム人のことをよく知らない、もしくは誤解していることも、ベトナム人を下に見ている理由の一つなんじゃないかしら。それはとても残念なことよね」
──確かに。「残念な誤解」をしているところは相互に多々あるでしょうね。
かねてからベトナム在住が長い日本人の間では「ベトナム社会やベトナム人に対する理解や感謝が不足している在住日本人が増えてきたんじゃないか」という話が出ていました。私達はベトナムという異国で、仕事をさせてもらい、生活させてもらっているんだから、国や人を知ろうとする努力、感謝の気持ちを忘れてはならないと思うんですよ。
──そうですね。私も今回の事件を「自分はベトナムとちゃんと向き合えているか」を問い直す契機にしたいと思います。
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【エミダス博士】 ベトナム生活に関する雑学博士。 長年のベトナム暮らしで得た知識を元に、当地で暮らす方々が直面する様々な質問にお答えします。 難問・奇問、大歓迎。 知りたいことがあれば、 emidas-m@nc-net.vn まで。